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「まったく、これは」

去る16日、R・カーヴァーの『大聖堂』の読書会を執り行いました。
 

『大聖堂』が大変有名な作品であることは今さら言うことではありませんが、短い中に必要なモノ全てを詰め込んだ素晴らしい短編であったと思います。

さて、この短編のクライマックスは偏見の塊だった男が、家に訪れた盲人と一緒に大聖堂の絵を描き、これまでまったく知らなかった世界に足を踏み入れるという場面です。
男は、自分の口では上手く説明できなかった大聖堂を、手と手を重ねてぎこちなく描いていくうちに、二人の世界が交錯するような、大いなるものを垣間見るような、それこそこの場では到底説明できない神秘的な何かに触れ、「まったく、これは」とだけ呟くのです。
今回の読書会ではもはや一体化であるとも言われたこの現象が指し示したものは何だったのでしょうか。
ラストに至るまでの流れで、男は盲人に対する反感に近い感情を繰り返し発露させます。しかし、いざ大聖堂を描くくだりでは、そのような気持ちは描写されなくなっていきます。ある意味で二人の心は通じ合ったのです。強烈な形で。

コミュニケーション能力という亡霊のような言葉が叫ばれている昨今、『あなた』と『わたし』が意識の疎通を行うことはこれまで以上に重視されています。そして同時に『コミュ障』『アスペ』と言われるような、相手との相互理解がままならない人間はより生きづらい時代になっていると私は感じます。(恋人、友達が作れない人間もこの『コミュ障』の中に組み込まれているような気がします)

そんな時代の中で『ふとした瞬間に、まるで理解できなかった相手と突如一体化する経験を味わう』というこの短編はどこか怪しい魅力を湛えているように見えます。
あなた』が『わたし』に、『わたし』が『あなた』になることは究極の理解であるだと私は考えています(なにせ自分のことのように相手のことが分かるのですから!)
客体というものが消えてしまう以上、理解と一体化は似て非なるものなのだとしても、人と付き合うことにどうしょうもなく疲れてしまう私にとって、それは、とても、魅力的なのです。
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